脳は体積としては大したことのない量でありながら、これなくしては人間の活動はあり得ないという重要な器官である。
大したことがない、の意味は身体に占める比のことではなくて、この小さな体積の中にどれほどの情報量と可能性が詰まっているのか、ちょっと見極めがつかない。脳を身体の一部と見、感じて過ごす。なぜなら、普段人は、脳を身体の一部と感じることは少ないのではないかと思う。感じるよりも、むしろそこを中心として活動している。翻ってその体積と身体意識を感じなおしてみる機会は、そういうメソッドでも実践してみない限りは少ないだろう。
科学的手法とは何か、私の理解はこうだ。現象を観察する。その中に法則性を見出す。法則性の発見が先か、世界モデルの構築が先か。ある枠組みを作り、その中で矛盾なく世界を説明することが出来るか。もしも法則に反例が見つかったり、説明できない現象が出てくれば、体系の見直しを行う。
現代の科学はいわゆる「一般人」の意識状態と、その共通性を基盤に発達してきた。しかし、一部には感性が「一般人」とは少し異なった一群の人々が存在する。数は少数でもその中で共通性を見出すことができればどうか。その場合それでも科学的手法を貫くとすれば、「一般人」の感性の深化形態が確かに存在することを確認しなければならない。客観性というものが「多数決」だと私が口走ることがあるのはこういう意味でである。