肉体に依存した快楽はそれはそれでいいのだろうが、逆に苦痛となると、心境が修まってきても肉体の不調によりそれが崩されるとなればこれはあまりよくないことではある。頭痛の時などは、静穏な気持ちなどはどこへやら行ってしまう。
そうならないように肉体のケアはすべきなのであろうが、例えば死ぬという際にはどこで見極めるかということが問題となってくるだろう。釈迦も死ぬ前は食中毒で苦痛に耐えながら、第四禅に入って亡くなったと「大パリニッバーナ経」に書いてあった。
一日中、自己を見つめるという時間にまわせればいいが、ダラダラとラジオを聴くなどの行為は私もついしてしまうのである。それは自己の選択ということになるだろう。私もまだ真摯さが足りないというか、甘いということなのだろう。それはもう甘いのだと、言い切ってよいのである。
ダラダラとした、通常の思考の、楽しさというのもあって、また正当な思考と行動による楽しさもあるのだが。もちろん質は違うし、求めるものが神とすればそれは後者をどうしても選択しなければならない。しかし選択の自由は、私に任されているように少なくとも表面上は見える。