強迫性障害のある一つの観念に囚われている時は、まさにそこから一生抜け出られないのではないかという想いに囚われたりもする。悩みを思考が増幅するので思考は良くないものだと考えた時期もあるが、どうもそれだけではなく、開放させるような思考(?)というのもあるというのを最近感じるのである。
最近感じるというよりもそれはずっとそうでありつづけたのだが、それをはっきり意識化したといったほうが良いのかもしれない。強迫性障害にとどまらずこれを一般論として悩みという分野に拡大することにも吝かではない。
これが、おそらくひらめきとか言われるものなのだろう。本当はそれはもっと、有益な方向にも活かせるはずなのだが、そうでなくても常にそれは、意識を向ければそこにあるのではないか。
ここで水素論を持ちだすと、神側なのかそれとも下側なのかということにもある。常識的に考えれば、ひらめきは神側からくるだろう。
最近私は、子どもということについて考えることが多い。子持ちの女性が近寄ってきて、やがて遠ざかっていったという経験があって、そのことを考えるようになった。実際、どうなのだろう。
子持ちの女性と結婚するということについて、結局このことは親には言わなかったが、別の女性に話してみると、あまり大して問題ではないというような話しぶりであった。親に話しても案外そうだったのかもしれない。
子どもがもし欲しいということが確定的であるのなら、取り敢えずSEXしまくればいいということにもなる。ただ話はそう単純なものではない。