大半の人間にとっては関係のない話であろうから書こう。昨日の瞑想であるがまま意識、客観意識について書いたが、松村十牛図の本158ページに、『奇跡を求めて』の引用が書かれている。この状態は水素24と関係があるらしきことが書かれている。
私はこの十牛図の本はあまり評価していない。その理由は小山十牛図本を読んでほしいが、それでこの状態が水素24と関連があるということはそれほど遠いものではない。ようにも思われる。
松村氏は同書のなかで、専門家的修練が必要だということを述べている。これは、24中心状態が専門家的サトリであると言ったリリーの言葉などが参考になっていると思われるが、瞑想という観点からいうと、これはどうも関係がないようにも感じられていて、自分の意識の中心が現に存在し、周囲に存在する意識内容とはかかわりなくずっと存在しているという実感のようなものではないかなという萌芽の感じ。
そんな感じがした。
それにしても現実が思い通りにならないということの何が問題なのであろうか。そのように考えてしまう意識が問題だとしてそのように考えなければよいというのだろうか。それともその考え自身が不自然としてあり得ないという方向に向かっていくのか。
この現実というものに対する不満はいったい何なのだろうということは、かんがえている。