逆行といって幼少期の精神状態をさかのぼってもそれほど天国みたいな時代があったとも思えない。そもそもこの地上にそんなには適していない人間かもしれない。
今日は石立八幡宮まで走った。おそらく明日当たり筋膜炎になるだろうがやむを得ない。エネルギーたるものは基本的には上に上昇する性質がある。下に溜まるならそれは物質度が高いと言えよう。だから走るとエネルギーは上に上がるし、浅いところでなら首から後頭部には既に回路が通っている。
しかしこれがやがて深くなるのかどうかはまだ疑問の余地があるし、もし浅いままなら、それほど意味あることとも思えない。走る事だけでエネルギー回路が開かれるならマラソン選手なんかはみんなそうなってなきゃおかしいが、そんなことはないからやはり個人の意識の持ちようというのは大事だろう。
ヨガにも流派は多くあって、そのいちいちを理論で検討してもあまり意味がある事とは思えない。手足の回路を開くには、私の場合型は一つ、若しくは2つといって過言でないように、
行法という面で見れば、数は必要ない、本当に限られたいくつかの行法で事足りるはずだ。で、中央の回路は何をするか。気功の型はあるにはあるが、以前、これを非常に熱心にやったことはあるが意味ある結論を見いだし難かった。
行法に条件が多少必要だが、クンダリニヨガのAセットはどうだろうか。
まだ決めかねている。手足のほうはこれ以上はやっても大して進捗はないものと思われる。行くところまで行った感じだ。
あとは考えているのは頭というのは手足のように分かりやすい先端ではないということなんですな。手足の場合は最終的には毛細管が広がっているだけだが頭部はそういう訳ではない。どうしても何かエネルギー的なものを想定しなければならないのではないか。
それから手足にエネルギーを行き渡らせる事は健康上は重要だと思うが、それで本質的な変化が何か期待されている訳ではない。手足の血行が良くなったからって悟るとは誰も考えないしその可能性も低い。だが頭部はまた別のものが期待されているというところも違いは違いと言えるかな
走っている時は最近懸案だと思っている事を考えながら走った。もし足が痛くならなければ時に走りたい。