書けるときは書いておこう。
このブログのタイトルは脱カルマ研究ということになっている。脱カルマなどというと、いわゆるスピリチュアル的な考えでは精神的なものとして捉えるのが通例であるようである。
しかし元々この脱カルマという言葉は、少なくとも私の場合は山手國弘氏の用例を踏襲しているから、どちらかというと肉体的なもの、物質的なものとして捉えている。
それでいうと現状では私は確実なことは肉体的な何かを通してしか言えない。それは、結果が確実であり動かないからであり、自分の身体を通して経験したからである。精神的なもの、ヴィジョンと言ったようなものは体験的にはあるが、それは安定していない。
白隠禅師は大悟2回(?)小悟数知れずという。大悟徹底という言葉があるが徹底ということはもうそれが本当に確実になった時に言える言葉であろう。だからぼくは小悟はあるが大悟はなく、大悟徹底もしていない、と自己判定している。
であるからそういった体験を語ることはあるが、かなり、自信のない形で書くのが通例である。人に話しても理解はされないだろうし(話したことはあるが、それについて何も言わず自分の話をし始めたのに驚いたことがある。やはり話すものではないと思った)、
現状では積極的に人に伝えようという気はあまり無い。ブログは所詮書き捨て&読み捨て